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一夜、廻る街 

Mistery Circleさん、第50回 Anniversary、おめでとうございます!
50回かーすごいなー……
私がMCさんにお世話になるようになったのは16歳の時からなので、思えば大分長い月日が経っているなぁと。
いつも本当にありがとうございます。

お題:
◎梅雨の章
 すべては予定調和の出来事だった。
ner.png

「その街では条件の揃った日に秘密の歩き方をするとね、一日だけ昔にタイムスリップできるって教えてもらったの。本当だったよ」
 私と二十歳違いの叔母は、そう言って印象的な茶色の瞳を柔らかく細めると、口元に指を当てていたずらっぽく笑った。
 思えば、私がドイツにはっきりとした興味と憧れを抱くようになったのも、あの時がきっかけだった。

 私が大学の夏休みを利用してその街に降り立ったのは、九月下旬、日本では早い紅葉が色付き始める秋に入った頃だった。
 風でそよぐ前髪を耳に掛けて空を見上げると、赤瓦で組まれた屋根の連なる上空を、白い雲が細くたなびくようにして流れていく。澄んだ秋の空は、どこの国でも遠い。
 陽射しに目を眇めて視線を巡らせると、遠くに緑豊かな山の斜面が目に入った。
 茶畑ならぬ葡萄畑のようで、こんなところでもここは日本ではないのだと改めて実感する。
 街中を歩くと、下が小さく、その上に少し大きな箱を乗せたような木組みの家を多く見かけるが、これは地震の多い日本では決して見ることは出来ない建物だろう。
 白地の上の組み木に塗られた茶や朱色が目に新しく映る。
 気温は日本よりも大分低いが、暑がりの私には薄手のコート一枚で丁度良い。からりと晴れた空に、湿気のない風が涼やかで気持ちが良かった。
 一歩壁際に退いて立ち止まると、一つ大きく深呼吸をする。
「あー……」
 目の前を人の波が通り過ぎていく。
 この観光地で一人旅行者はさほど珍しくないだろうが、それでもいきなり叫び出すようなことをすれば衆目の目を引いてしまうだろう。分かっていてもなお踊り出したくなるような、叫びたくなるようなこの滾りをどうしよう。
 結果的に私はことさら無表情を装って低く呻くだけに留めたが、心中はその真逆で、せめてと腰の位置で小さく強くガッツポーズをした。

 ドイツのフランケン地方南東部に、ネルトリンゲンという街がある。
 約1500万年前に落ちてきた隕石のクレーター跡地に造られたこの街は、上空から見ると見事な円形をしていることが分かる。
 街の中心に建てられた聖ゲオルグ教会(街の人からは『ダニエル』の愛称で呼ばれている)の階段を上りきった私は、手元にネルトリンゲンの観光案内を握りしめて眼下を見下ろし、思わず小さく快哉を叫んだ。
 景色が遠くて、空が広い。
 視界に映るのは、遠くに緑の田畑、そして大きな半円の塀を境にして、内部に赤い屋根の家々が密集している。まさしく『壁に囲まれた赤い屋根の集う街』だ。残りの半円は背中側に広がっているのだろう。
 よく見ると屋根の間に車や人の姿なども見えて、耳元を過る秋風と共に、改めてこの景色が本物なのだと教えてくれた。
 手すりを強く掴んで、眼下の景色を食い入るように見つめる。
 ずっとずっと、子供のころからこの景色が見たかった。自分の目で見て耳で聴いて、足でこの場に立ってみたかった。
 塔の上は歩く場所が狭いため、すれ違う人に道をあけながら、私は首から下げていたスマートフォンを取り出して目に映る景色を写真に収め、SNSサイトに短文を投稿した。
 『ネルトリンゲン、なう』

 緯度が高いドイツでは、夏場は二十一時を過ぎても明るく、冬は逆に極端に日が短くなるという。
 予約したゲストハウスで、ドミトリーのベッドに腰掛けながら、私は胸中わくわくしながら頻繁に時計を確認していた。
 向かいのベッドで寝返りを打った女の子がこちらを向いたので、起こさないようにと少々慌てて枕元の明かりを調節する。ちなみに今日の部屋は女性の六人部屋だったが、ハイ・シーズンではなかったためか、部屋にいるのは私と彼女だけだった。
 時刻は午後二三時。外はもう暗くなってから大分時間が経っている。
 もう少ししたら出発しようと思い、改めて持っていく荷物を厳選する。
 服は動きやすさ重視だ。薄青のハイネックセーターにスキニージーンズで、小さなバックパックに懐中電灯、ライター、筆記用具、水のペットボトル、ライ麦パン、小さな銀色のボウル、貴重品などを詰め込むと、髪を頭上で束ねてすっきりさせてからバックパックを背負う。
 立ち上がって身の回りを確認し、忘れ物などがないことを確認すると、電気を消してゲストハウスのカードキーを手に取った。
 
 寝静まった夜の街をひた歩く。
 昼間はあんなに人が多かったというのに、夜の街には驚くほど人気がない。
 さすがに秋のドイツは夜が冷え込む。
 一瞬髪を解こうかとも思ったが、やはりポニーテールが動きやすいと思い直し、首回りをさするだけに留めた。
 白い息が出るほどではなかったが、なんとなく口元に当てた手に息を吹きかけながら、空を仰いで息を飲んだ。
 黒い建物の間から、見事な月が覗いている。
 今日はスーパームーンと呼ばれる満月の日だと聞いていた。
 もちろん、この日を選んでネルトリンゲンに来たわけだが、天候までは来るまで分からず、頼むから雨だけは降ってくれるなと願っていた。
 期待以上の天候だった。
 月に掛かる雲も薄く、雨雲の気配もない。なんとはなしに背後を振り返ると、足元から自分の影がくっきりと伸びていた。街灯まで距離があるというのに、夜道が明るい。
「いいねー」
 思わず頬が緩んでしまう。
 石畳を踏みしめながら、きょろりと辺りを見回して、私は街を取り囲む塀を目指して走り出した。

「……これだ……」
 軽く息が上がっているが、声も興奮で上擦っているのが自分でも分かる。
 街をぐるりと囲んだ塀には、所々に階段が作られており、自由に塀の上に登ることが出来た。
 ネルトリンゲンは中世から続く自治都市だったそうだから、昔はこの塀の上を見張りの兵士たちが闊歩していたのだろうと思うと不思議な気分になる。
 街を歩いている時に見上げていた赤い屋根も、ここからだとほぼ同じ目線の高さでじっくりと見ることが出来る。
 円形の街には外と中とを繋ぐ門がいくつかあって、今私が立っているのもその門のすぐ近くだった。
 塀の上には灯りはなく、屋根が月光を遮るので視界はあまり良くない。だが、それでも暗闇に目が慣れると、遠くにある街灯から僅かな光を拾って辺りの状況を把握することができた。
 塀の石壁に手をついて、天井の一角を食い入るように見つめる。
 そこまで目立つわけではないが、そこには確かにこの暗闇の中でも読み取れるほどの大きさで、『MC』というアルファベットが凝ったレタリング文字で彫られていた。
「MC……」
 確かな文字だった。
 ネルトリンゲンのような都市の場合、旅行にきた観光客が、自分が来た印を残そうとどこかしらに落書きやひっかき傷を作ってしまうことは珍しくないが、この文字はしっくりとその場に馴染んでいて、まるでその場に何かがあることを指し示す看板のようにも見えた。
 しばらくその文字に見入っていた私は、ややあって我に返ると、背負っていたバックパックから小さな銀のボウルとペットボトルを取りだし、ボウルに半分ほど水を入れて手に持った。
 手すりに少し体を預けるようにして、ボウルの水面に大きな月の姿を映し出す。そうして、再度天井の文字を確認してから、街を取り囲む壁の上を気持ち急いで歩き出した。

 ――MC。MC……誰かの頭文字だろうか。
 ミヒャエル、ミッシェル、それともマーカス?
 答えにはたどり着けないだろうが、かつて意思を持ってあの文字を掘った人のことを考えることは楽しかった。
 MCという刻み文字を始点に、満月の姿を映した水鏡を捧げ持ちながら、右回りに二週、左回りに一週。街を円に見て、均等に建てられた門の上では水鏡に月の姿を映しなおすこと。
 気温は少し冷え込むくらいだと思っていたのに、三週回りきるころにはすっかりへとへとの汗だくになっていた。
 前髪をかきあげ、ぐいっと汗を拭って顔を上げると、うっすらと東の空が明るんできている。
 そりゃそうだろうと思った。腕時計を月明かりで確認すると、夜半から歩き始めて、実に四時間以上歩いていたことになる。
 水がなければもっと楽だったんだろうけど、と思いながら、頭上に彫られたMCの文字を見上げる。
 酸欠気味だった呼吸が整ってくると、今度は別の意味で動悸がしてきた。
 深夜にこんな行動をしている人間は、傍からみると不審者ともとられかねないが、観光客である私がこんなことをしていたのにはれっきとした訳がある。
 昔、叔母から聞いた言葉がその理由で、いわば強い好奇心というわけだ。
『その街では条件の揃った日に秘密の歩き方をすると、一日だけ昔にタイムスリップできる』
 どんな条件なのか、秘密の歩き方はどのようにするのか。自身も昔この街で人から教えてもらったのだというその方法を、叔母は私に教えてくれた。
 私はそれまであまり空想などに耽るような子供ではなく、ましてや魔法などとという言葉は書籍の中でしか見ないものだと思っていたが、それでもなぜだろう、人生の善き先輩である叔母が言うならば、本当に過去に行けるかもしれないと思ったのだ。
 手に持ったボウルを見つめて、最後の水鏡として月を映すと、ボウルに口を付けてその水を全て飲み干した。疲れ切った身体と喉を水が潤していくのが気持ちいい。
「――さて」
 口元をぐいっと拭って、月を仰ぐ。
 これで叔母に教えてもらったことは、全て試したことになる。
 さて――どうなる。

 結果的に言うと、どうもなりはしなかった。
 そのまま十分ほども経っただろうか。
 そよそよと前髪を揺らす風に動悸が静まって行く。
「…………」
 辺りは未だ人気がなく、薄暗い。気温は先ほどよりも少し寒く感じるようになった。
「……え、と」
 ここにきて私は、一つ重大なことを忘れていたことに気が付いていた。
 叔母にこの方法を聞いたのが十年前。以来何度か同じ話を聞かせてもらったが、肝心の水を飲みほした直後のことについては聞いたことがなかった。
 叔母の話からして、てっきりこの行動を取った後にはなんとなくだが魔法のように、壁の中の空が光ったり、音がするなり変化があるものだと思っていたのだ。
 何かを見逃していないだろうかと壁の上を歩き回る。と手すりを掴み、何度も瞬きをして辺りを見回すが、視界に入る景色は何も変わらない、夜明け前のネルトリンゲンの景色だった。
「……叔母さーん……」
 しばらく経ってぽつりと呟く。
 冷静に考えればこんな現象が起こる方がおかしいのだろう。タイムスリップだなんて、ばかげている? ――分かっている。
 だが、それでも思わず恨みがましい調子が出てしまったのは、昔から叔母の話を楽しみにして、かつ、MCの文字を実際に見てしまったからだった。
 叔母は約二十年前に、このネルトリンゲンに旅行に来た際に、街を散歩していて、塀の上で出会った人からこの不思議な話を聞いたのだと言っていた。
 天井に刻まれた文字を見上げている男の人がいて、塀の上を一周してもまだその人がいたから、話しかけてみたのだと。
 ……私は、仮に昔にタイムスリップできたとして何がしてみたかったのだろう。
 叔母の時はたった一晩、時間の流れが違うところにいたと話していたが、タイムスリップは移動する時間軸などは選べないと考えるのが普通だろう。
 膝を折って、手すりに腕と頭を預ける。
 このネルトリンゲンの街に来る前、列車でローテンブルグという街に寄り、中世におけるこの地方の刑罰や拷問法などを知ることのできる犯罪博物館という場所を見学した。
 見てから、自分が生きているのが現代で本当によかったと思ったが、いつに飛ぶか分からないならば、当然中世ドイツにタイムスリップすることもあり得たはずだ。
 手すりの木目を視線でなぞって瞼を閉じる。
 自問自答するならば、私は仮にタイムスリップしたとしても別に何をしたいわけではなかった。
 ただ、時間の流れの違うところに行ったのだという叔母の話を聞いて、楽しそうに話す叔母を見て、自分も同じ体験をしてみたかったのだ。
 少し休んでから、ゲストハウスへ戻ろう。
 頬に束ねた髪がはらりと掛かるのを感じながら、私は静かに息を吐いた。

 雨の匂いがして、怪訝に思って目を開ける。
 辺りはすっかり明るくなっており、どうやらあのままの体勢で寝てしまったらしい。
 ぶるりと身震いしてくしゃみが出る。辺りは肌寒く、しとしとと静かな雨が降っていた。
 明け方の空は今日も快晴を予感させたが、急に天候が変わったのだろうか。
 時計を確認すると午前六時半を指していた。まだ早い時間帯だからか、街に人の姿は見受けられない。
 そうして下を確認して、ぐるりと巡らせた視線に一瞬違和感を感じる。なんだろうと視線を戻し――目を見開いた。
 眼下に紫陽花の群集が咲き誇っていた。
 
 手すりから身を乗り出す。
 雨に濡れるのも気にせずに、茫然と視界に広がる紫陽花を眺める。
 水滴を載せた、青と紫の装飾花が綺麗だった。手まり咲きで、薄紅のものもある。随分大きな群集で、もしかしたら私の身長よりも高いかもしれない。壁一面の、それは見事な景観だった。
「紫陽花? なんでこんな……」
 私が昨日確認した時、壁沿いに生えているのは色付き始めた葡萄の蔓だった。暗闇だからといってここまで生い茂っているものを見落とすわけがないし、ましてや、九月にこんな紫陽花が一晩で生えるわけがない。
 そこでふと、足元に置いてある銀のボウルが目に入った。昨日私が飲み干した、水鏡に月を映した銀のボウル。
「……まさか」
 ドクリと心臓が大きく跳ねる。
 バックパックからスマートフォンを取り出してホーム画面を起こす。まさかと思いながらカレンダーアプリを開き日付を確認して――小さく喘いだ。
『1994年6月18日』
 仮にタイムスリップしたというならば、過去の時間を現代のスマートフォンが映し出すはずがない。日付を確認したのは半ば混乱した末にとった行動だったが、日頃見慣れたカレンダーアプリは、確かにその日付を表示させていた。
「1994年……」
 茫然と呟く。私が生まれた年だった。
 殆ど無意識に電波状況も確認して、アンテナアイコンが『圏外』の文字を浮かべていることを知る。
 ドクドクと鼓動が早くなる。
 確かにこの展開を望んでいた。
 小さい頃から叔母の話を聞くのが楽しみで、成長するにつれてドイツに対する興味と憧れは増して行き、絶対にドイツに行くのだと子供の頃から計画を立てていた。大学でもドイツ語を専攻している。
 それでもすぐに受け入れられなかったのは、昨日のことがあったからだ。一度落胆したあと、同じことを信じることは難しい。ましてや、ここが過去かもしれないと示すのは手元のスマートフォンと紫陽花のみなのだ。夢でないと、スマートフォンの故障でないとどうして言えよう。
「紫陽花はまぁ、ちょっと説明できないけど……」
 手すりをギュッと掴んで紫陽花から視線を起こす。
 灰色に曇る雨雲を背景にして、街の中央にダニエルの姿が見えた。赤い家々も変わらず、塔の周りにひしめき合うようにして建っている。
 天候こそ違うが、私が昨日の昼間に見たものとまったく変わらない景色がそこにあった。
 これが本当に二十年前。歩いてくる人がいるならば、その人は二十年前の人ということになるのだろうか。
「……」
 背筋を震えが走る。寒さか、それともそれ以外が原因か。
 とにもかくにも、落ち着かねばならなかった。起きた時から空腹感を覚えていたが、空腹はこの場合あまり歓迎できるものではない。
 街に背を向けてその場に座り込むと、バックパックからライ麦パンとペットボトルを取りだし、胃に流し込むように飲み下した。
 何もつけていないパンだったが、もとより、何か味がついていたとしても味は分からなかっただろう。
 ペットボトルに残っていた水を殆ど一気に飲み干して、ため息とともに口元を拭う。
 食べ終わって数分、そのままの体勢でじっとしていたが、ややもすると頭の中も落ち着いてくる。
「オーケー」
 あえて口に出して言ってみる。
 オーケー。今この世界が、本当に二十年前なのかは分からない。なぜならここにいる限り判断する材料が少なすぎるからだ。
 ならば、少しずつでも材料を増やして行くのが良いかもしれない。
「とりあえず、一周しよう」

 ネルトリンゲンが雨に包まれる中、壁の上を歩いて行く。
 昨夜から数えて四週目だった。一週をゆっくり歩いて一時間超え。時計回りに巡ってみた。
 元々この壁の上を歩くのは、物好きな観光客くらいで、街の人はあまり歩かないと聞く。やはり朝だということもあるのだろう。これだけの時間注意深く歩いても、誰ともすれ違うことはなかった。
 とはいえ、壁の下では傘をさして歩く人の姿は何人か確認している。声を掛けようとして、その都度勇気を振り絞ることができなかったのだ。
 歩いていた人たちは、服装などにはまったく違和感はなかった。考えてみれば、何も中世ドイツに飛んだわけではない。二十年前というこの現状は、見た目だけではある意味とても時代の判別がつきにくい気がする。
「車とかなら分かるかな……」
 延々と一人で歩いていると、自然に独り言も出てしまったりする。
 誰かと遭遇したらどうしようかと気を張っていただけに、拍子抜けるような思いだった。
 そうして緩い曲線の石畳を歩き進めて、元いた場所が完全に見えるようになったとき、私は思わず「あ」と声を上げていた。
 男性が一人、壁の上に梯子を持ち込み、木組みの天井に向き合っている。
 座った梯子に足を絡めて、手元に二本の工具を持って、天井に何か文字を彫っているようだった。

 男性の手元が見えたのは一瞬だった。
 というのは、私が不意打ちの遭遇に心の準備ができず、あまりに緊張しすぎて、殆ど会話することが出来ずに通り過ぎてしまったからだ。
 足早に歩きながら、挨拶がするのが精一杯だった。
 頭の中が真っ白なまま、五分ほど歩いて、私はぴたりと足を止めた。
 まだ動悸が速い。心臓が早鐘の様に脈打っている。
 まさか気を抜いた瞬間に会うことになるとは思わなかった。何しろ起きてから初めて会った人間なのだ。
 もしかしたら本当に二十年前の人かもしれない。そう思うと、分かりやすく手が震えた。
 落ちてきた前髪を耳に掛ける。両手を併せ、セーターの袖口を鼻孔に当てて瞼を閉じ、過呼吸時の対処法のようにゆっくりと深呼吸した。
 ここが異国の地でも、何年前でも、自分の着ているものは慣れ親しんだ匂いがする。
「……ふー……」
 落ち着くのは匂いだな、と思った。
 土の匂い、珈琲の匂い、植物の匂い、我が家の匂い。好きな匂いだ。
 しばらくしてから目を開ける。
 網目の太いセーターは、日本にいる時に冬物バーゲンで安く購入したものだ。買ってからあまり柄が気に入らず、着たのもほんの一、二度。日本よりも気温の下がるこのドイツ旅行の終わりに、荷物軽減で処分しようかとも考えて持ってきたものだったが、今はこの匂いが何より落ち着かせてくれた。
 不思議と笑みが込み上げてくる。
 今がいつだろうと変わらない。少なくとも戦時中でないならば、差し迫った危険は少なく、シチュエーションとしては朝の散歩中に人に出会っただけだ。
 現代ならば笑い話。過去ならば万々歳。少なくとも私は来るための行動をして、望んでここに来たのだ。
 一瞬すれ違っただけだが、男性の朗らかな笑顔も思い出して力をもらった。そして何より、男性がしていた行動にも興味がある。
 話しかけてみよう。
 一つ拳を強く握る。
 もう一度袖口に鼻を当てて深呼吸すると、くるりとその場で踵を返した。

 男性の名前はピーターと言った。
 三十八歳で、アメリカ人らしい。英語が通じるのが助かった。
 癖のある短い金髪に、薄くそばかすの散った血色の良い顔、少し垂れ気味で愛嬌のある灰緑の瞳が親しみを沸かせる顔立ちをしていた。
 梯子から降りてきたピーターは背が高かった。グレーのつなぎがよく似合っている。
 私が自己紹介をすると、パッと顔が輝いた。
「日本人か! 日本人は好きだよ。あー……リカ。リカ、カワサカ? 難しいな」
「よく言われます」
 笑って頷く。
 日本にいる限り、私の川坂理香という名前はさほど珍しくは感じられないが、海外に行くと欧米辺りではたまにこのような反応をされる。慣れていない人には発音しにくい、母音言語の名前ならではだろう。
 男性の反応が見知ったものだったこと、そして何よりその親しみのある笑顔にホッとして、私は男性の座っていた先にあったものを見上げた。
 木組みの天井の端に、まだ新しい、彫られたばかりと知れる文字が彫られていた。
 『MC』と書かれたその文字は、Cの最後が僅かにささくれ立っている。彫られている最中だったのだろう。
 男性の元に歩いてきてからずっと一定の速さで脈打ってきた心臓が、ドクドクと再び早くなるのが分かった。
 まったく落ち着かないなぁと小さく苦笑する。
「ピーターは何をしていたんですか?」
 何気なさを装って質問すると、ピーターははぐらかすでもなく笑って天井を指示した。
「天井に文字を彫っていたんだよ。僕はこの街の彫師でね。扉が壊れたり家の壁に模様を彫ったりするのが仕事なんだ」
「仕事……」
 返ってきた答えに頷きそうになって、首を傾げる。あまり答えになっていない気がする。
「えーと……今彫っていたのも仕事なんですか?」
「いや」
「いや、って」
 にこやかに首を振る姿に脱力するが、ということはこれは落書きなどと変わらない行為なのではないだろうか。
「この下の門のところに彫細工を施すっていうのはちゃんともらった仕事だけどね。でも朽ちかけているところとか、表面が粗い場所なんかは報告すれば直していいことになっているから、そういう意味ではあとから仕事になるのかな?」
「…………」
 天井が朽ちかけているとは思えなかったし、文字を彫ることは表面を鞣していることにはならない。理由を後付しているようにしか聞こえなかったが、私はつっこまなかった。どうやらピーターは、朗らかな笑顔だけではない、食えない一面も持っているらしい。
 文字の新しい傷跡を見つめる。
「……MCってどういう意味なんですか?」
「どういう意味だと思う?」
「え?」
 思わず振り返ると、ピーターは意味深長な笑みを浮かべていた。まばたきをする私に、灰緑の瞳を細めていたずらっぽく笑う。
「ミステリー・サークルっていう意味さ」

「――ミステリー・サークル?」
「そう。ミステリー・サークル、クロップ・サークルとも言うけどね。ほんの少しの遊び心だ」
 ミステリー・サークルといえば、畑などの作物を引き倒して作られる円のことだろう。昔は一大ミステリーと騒がれたみたいだが、近年では殆どが人為的に作られたものだということが分かっていると聞く。
 私はミステリーやオカルト方面には明るくないので、詳細は分からないが、どんなものかくらいはふわっと出てくる。それくらい有名な単語だった。
 だが、この場合の『ミステリー・サークル』に畑の創作物は当てはまらない。もっと単純に、言葉の意味をそのまま受け止めるべきだろう。
「……この街がミステリー・サークルだって意味ですか?」
「あれ、そう思う?」
「多分。それ以外に考えられないので」
 アメリカ人は、私の答えを聞くと、軽く鼻をかいてから手の汚れを服で拭い、視線を宙に飛ばした。何かを考えているような仕草だ。
 ややあって、私に視線を戻して頷く。
「うん、正解。この街のことであってるよ。何かミステリーとか見つけた?」
「んー……多分」
「例えば?」
 答えに一瞬迷ったのは、街をミステリー・サークルだというピーターの真意が分からなかったからだ。世間話などであればさらりと流すこともできるが――。
 どのように答えればいいのか迷って、結局相手の出方を見てみることにした。
「例えば、ですけど――この壁の中を、特定の日に秘密の歩き方をすると、今とは違う時間に行けるかもしれない、ってことは聞いたことありますよ」
 慎重に言葉を続ける。さりげなさを装いながらも、落ち着かなくて、後ろ手でセーターの袖口を掴む。
 こんな例え話をどう思うだろうか? と思ったが、ピーターは笑わなかった。あるいは、予想していたのだろうか? 朗らかなアメリカ人は一瞬片眉を上げて私を見ると、面白そうな表情をした。
「例えば君が?」

 ピーターの問いには目的語がなかったが、言わんとしていることは分かる。
 ジョークで流されなかったことを意外に思いながらも、胸中の驚きは出さないように努めて、私は軽く肩をすくめて見せた。
 そもそも、この状況で出会った人と、初対面なのにこんな話をしていることがどこかおかしかった。ミステリーの話など、友達とも殆どしないというのに。
 しかし、その一方、どこかで「もしや?」と思っていることもあったのだ。だからためしに、どきどきと煩い鼓動を無視して、話を合わせてみる。
「そうかも――って言ったら、驚きます?」
「いや? まぁあることかもしれない」
 ピーターの答えは簡素だった。笑い飛ばすでもなく、困ったように誤魔化す様子でもない。
 だから私も確信した。
「あなたも――、あなたもタイムスリップを経験したことがあるんですね?」

 質問の形をした断定に、イエス、と頷いたピーターの反応があまりに素直だったから、思わず拍子抜けしたのは私の方だった。
「……ええと……本当に?」
「嘘だと思う? 僕も、ってことは、君もそうなんだろう? 何年後からだ?」
「ええ、まぁ……多分二〇年後です……」
 思わず頷いてしまったのは、ピーターの反応につられたということもある。
 二〇年という言葉をピーターが繰り返す。
「そうか……僕より年下には初めて会ったけど、君はさらに今より年下になるってわけだね」
「ええ、まぁ……多分」
 先ほどから「may be(多分)」しか言っていない。
 タイムスリップ。タイムスリップだ。ミステリー・サークル同様、なんとも現実味のない言葉だが、初対面で会った私とピーターはこのネルトリンゲンの壁の中で大真面目にその話をしている。しかもチグハグなのに会話が通じている。
 そのことが少しおかしくて、現実味がなかったが、話の通じる人に出会えたということがそれ以上にホッとさせていた。
「……確認してもいいですか? 今って何年何月ですか?」
「1994年の6月18日だね。ドイツでは先の大統領選でヘルツォークが勝ったよ」
「…………」
 落ち着いた声で、聞き取りやすい英語が耳朶を打つ。
 予想していただけに驚くことはなかったが、それでもやはり、他人の口から過去だと聞くのは衝撃的なものだった。
 ごくりと唾を飲む。
「……大丈夫かい?」
「ええ……、ありがとう」
 私の顔を見たピーターが気を使ってくれるが、落ち込むような意味でショックを受けているわけではない。むしろその逆で、軽い興奮状態にあった。
「――なぜ私が過去じゃなくて未来からだと?」
「過去から自分の知らない未来には行けないからね。過去にしか行けないし、タイムスリップは過去に対して行われる」
「え、それって……元の世界には戻れないってことですか?」
「自分が元いた世界は、時間が変わっていないから自分にとっては未来じゃなくて現在になるらしいよ。時間が経ってこの世界で眠りに就く。すると元の世界で目覚めるだけだ」
 眠りにつくと元の世界で目が覚める。それではまるで――。
「言いたいことは分かるよ。夢みたいだって思ったろ? 僕も他人から聞いたことなんだけどね。……まぁ、今まで一晩以上いれたことはないし、元の世界に戻れなかったこともないから大丈夫なんじゃないかな」
 詳しいことは分からないけど、と肩を手を広げて、ピーターは肩をすくめた。先ほどの私よりよほど様になっている。
 なんとも頼もしい回答だなぁと思った。
 顔が熱い。興奮している自分を自覚して、手で軽く煽ぐ。 聞きたいことがいくつかあった。
「ピーターも今までに過去に行ったことがあるんですね」
「うん」
「……もしかして、こういう話って珍しくないんでしょうか?」
「んーどうだろう。そうほいほいあることではないと思うけど……このネルトリンゲンなら、多分だけど他にも同じようなことを体験している人はいると思うな。聞いたことがないだけで……未来から来ました、過去へ行きます、だなんて普通言わないだろ」
「それは……確かに」
 ピーターの言い方がおかしくて思わず笑ってしまう。確かに言わない。
 そのまましばらく静寂が落ちて、「ところで」と今度はピーターが口火を切った。
「僕も時間の旅行者が来たら聞いてみたいことがあったんだけど、リカは、これは現実だと思う? 夢だと思う?」
「夢、ですか?」
「うん、さっきの話の続きというか。僕はタイムスリップを今までに二回経験しているが、二回ともこの壁の上で、目が覚めたら過去、もう一度寝入って目が覚めたら元の世界に戻っていた。でも、考えればそんな都合のいい話があるかな? 実は最初から全部、そういう夢を見ていたんじゃないかな? とも思ってしまうんだ」
 ぱちぱちと瞬く。ピーターの言いたいことを噛み砕いて、なるほどと思った。
「タイムスリップ自体が夢で、そうならば私にとっては今のこの瞬間も夢を見ているのでは……ってことですよね」
「うん。どう思う?」
「どう……逆に聞きたいんですが、あなたにとってはここは現実なんですよね?」
「仕事から逃げられないこととか含めて、これ以上ないほどに。……でも、夢の中だとどんなにリアリティがあっても、他人の考えは自分の考えじゃない。夢か現実かが分かるのは夢から醒めてからだと思うけど、君はこの現状をどう思う? ぜひ聞きたい」
 面白いことを言う人だなぁと思った。
 私にとってこれが夢ならば、ピーターは夢の中に出てきた一登場人物に過ぎない。だがそのピーターが、これが夢か現実か、感じていることを教えてくれという。
 言っていることは分かる。確かに、夢の中で自分のいる世界を夢だと確認することは難しい。どんなに感覚があっても、匂いがあるような気がしても、それが夢だったと分かるのは起きてからなのだ。
 夢から醒めるように元の世界に戻れるならば、それが夢ではなかったとどうして言えるのだろうか?
 そんなことを言いたいのだろう。
 視線を巡らせる。
 手すりの外では、ネルトリンゲンの静かな赤い街並みを、霧雨になった雨が僅かに降っていた。視界が明るい分、眼下にある紫陽花の群集が、これ以上ないほど鮮明に目に入る。鮮やかな緑と、手まり咲の花が眩しいほど綺麗だった。
「…………」
 私はしばらく考えてから、視線を戻す。灰緑色の瞳を見上げて、ゆっくりと口を開いた。

「――お時間、大丈夫ですか?」
 私がそう聞いたのは、手元の腕時計を確認して、午前九時を回っていることを確認したからだ。優に一時間半以上はこの場に立ったまま話し込んでいたことになる。
 ピーターは、自分でも腕時計を確認すると、もうこんな時間か、と驚いたような表情を浮かべた。それから「そうだなぁ」と頷く。
「んーそろそろかな。この文字を仕上げてしまってから、下の仕事にも取り掛かるよ」
「そうですか……」
 脱力二回目。ピーターにとっては、どうしてもこの文字を仕上げる方が先らしい。
 曖昧に笑ってから、私はピーターの顔を見上げた。
 手を差し出すと、彼は長身を少し屈めて、ガシッと力強く握り返してくれた。
 その瞳を見つめて、視線と手に精一杯の感謝を込める。
「会えてとても嬉しかったです。貴重な話をありがとうございました」
「こちらこそ。有意義な時間だったよ。ありがとう」
 ピーターに微笑む。そう言って貰えたことが嬉しい。
 まさか、二〇年前で初めて会話した他人と、こんなに濃い会話ができるとは思わなかった。今日ここに、ピーターがいてくれて本当に良かった。
 握手をして背を向ける。
 歩き出そうとして、私はふと叔母を思い出した。
「もう一つだけ聞いて良いですか? ここら辺で、私と同じくらいの日本人の女の子に、今の話をされたことがありますか?」
 梯子の上に座り、天井に文字を彫る作業に戻ったアメリカ人は、私の問いにしばらく考えた末にゆっくりと首を振った。

 壁の中をゆっくりと歩く。
 頭の中が混乱しているような、落ち着いているような、奇妙な気分だった。
 曲線を曲がると、道が二股に別れていた。一方は壁の道。もう一方は街へと降りる、下りの石階段だった。
「…………」
 街に降りるか降りないか迷った末に、とりあえずと階段に進み、中腹で腰を下ろした。
 この階段を降りたら、二〇年前の世界が待っているのだろうか。
 壁にくりぬかれた窓から見える空が、白く明るい。
 青空こそ見えないものの、ずっと降り続いていた雨は上がったようだった。
 こんなに見知った空があるのに、この階段の下で生きている人達は自分とは違う時間を生きている。街の人から見れば、逆に私が未来から来たことになるのだろう。そのことがとても不思議だった。
 きっと昨日の夜にとった行動は、教えてもらった方法は、この日に来るものだったのではないだろうか、と思う。
 タイムスリップは日付を選べないだろうと思っていた。だが、先ほどの話を聞いたことは、とても偶然とは思えず、すべては予定調和の出来事だったのでは、とさえ思う。
「はー……」
 手すりに軽く凭れ掛かる。頬を撫でる冷たい風が気持ち良い。
 今寝たら気持ちいいだろうな、となんとなく思う。これが夢だとしたら、夢の中で寝たらさらに夢を見るのだろうか。
 階段の下を何とはなしに眺めていると、街の石畳を歩いてくる女性の姿が見えた。
 階段を登ってくる。
 この世界ですれ違う人としては二人目になりそうだ。僅かにドキッとするが、ピーターの時よりははるかに落ち着いていることができた。
 おそらく年齢は私とさほど変わらないくらいだろう。同じアジア人だった。
 私は異国で会う同じ民族には殆ど無条件に好印象を持つのだが、どうやら相手も同じだったらしい。体を起こした私を認めて、親しみのある笑顔を浮かべてくれた。
「Hello」
「Hello」

 すれ違ったのは一種だったが、彼女の生気に満ちた茶色の瞳が、やけに印象に残った。


《 一夜、廻る街 了 》



このMC50のお題を頂いたのが2年くらい前。
それからぼちぼちお話を書いていたのですが、先週ドイツに行く機会があり、ネルトリンゲンという隕石のクレーター跡地にできた面白い街に行きました。
記念小説だしMistery Circleだしこれは書きたい!と帰りの飛行機の中でスマホに書き始めたものです。
締め切りの件では管理人さんに土下座しましたが、とても楽しかったです。

ありがとうございました。

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