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いきたい世界 

MC小説お題:
起の文『思い出は甘いばかりじゃない。苦かったり辛かったり、きっと血の味がしたりする。』
結の文『こんな嘘つけるようになった私って汚れたなあ。』


 思い出は甘いばかりじゃない。苦かったり辛かったり、きっと血の味がしたりする。
 それでも過去に思いを馳せてしまうのは、自分がその上に成り立っていると自覚しているからだ。人生は山あり谷あり、酸いも甘いも経験して、ふと振り返ったときに、ああ、あんなこともあったなぁとしみじみ思いに浸ることができる。
 だから、自分の今の境遇がその谷部分であり、酸味を通り越して苦味を覚えるようなものだとしても、それはずっとは続かなくて、きっと二年後には笑えているはずだ。
 マーリンは、胸中の全てを吐き出すような溜息をついて、ついでにその吐息で凍えた指の先をわずかながらも温めようと試みた。息が白く曇る。赤くなり、悴んで震える指先はとうにその感覚を麻痺させているが、それでも掃除を進めるには両手を使うよりほかにない。

 僅かに緩んでいる木桶の箍に注意しながら、手に持っていた布の切れ端を、粉石鹸を溶かした水の中に押し込んだ。手の感覚はないはずなのに、凍傷で切れた指先が痛むのはなぜだろう。ジンジンと痛みの走る指先を無視して、無言で硬く水を絞る。一つしかない燭台の明かりの中でも、指先が腫れて荒れているのが分かった。
 ゆらゆらと燭台の炎が揺らめいて、家具の影が不規則にざわめく。さわさわと何かの囁き声まで聞こえてくるようで、マーリンはわずかに眉を顰めた。「大丈夫」と呟く。
 ずっと床掃除をしていたから、いささか腰と膝が痛い。そんな時は無理をせず、中腰の状態で腰をよく揉んでから立ち上がった方がいい。
 布きれを持って、今度は窓を拭く。
 透明より黄色が目立つ色合いで、細かな傷を負い、下がやや分厚くなっている組み硝子は長年使用されている証だが、それでも高価な硝子がこの広い屋敷の中のみならず、こんな塔の先端の窓にまで使用されているのはこの家の豊かさの表れと言えるだろう。
 三日と開けずに掃除しているにも関わらず、今日も僅かに曇っている窓を、力を込めて丁寧に拭う。マーリンの背丈だと三番目の組み硝子より上は梯子を使わないと拭けないが、それでも半年前は二番目の組み硝子に届くのがやっとだったことを思えば、ほんの少しは気分も上昇する。たまに素肌に触れる硝子が氷の様に冷たい。
 窓の外をチラチラと雪が舞っていた。今日の空は雲が薄いのか仄かに明るい。舞い踊る雪の粒は小さく、また勢いも穏やかだった。
 梯子を掛けて窓を全て拭いてしまってから、僅かに顔の角度を変えて窓を下から透かし見る。汚れなし。
 布きれを放り込んで、汚れた水の入った木桶を持ち上げながら、顔に掛かってきた長い前髪を鬱陶しくなってかきあげる。前髪は大分伸びてきたが、それでも以前のように後ろで一つにくくれるほど長くはない。視界に入ってくる不揃いな前髪にイライラする。マーリンは、この自分の母親譲りの黒髪を見るのが嫌いだった。

 ロマという民族がいる。
 どこから来たのか、そしてどこへ行くのかは誰にも分からず、ただその民族の名前だけが独り歩きをして、いつしかその名前は伝承になった。
 街の角で吟遊詩人が歌うのは、九割が恋の歌か、もしくはこのロマの歌だと言っても過言ではない。ロマ。エガーテ。シアンドーラ。地域によって異なる呼び方をされる彼らは、一つのところにとどまることのない移動民族で、一説によると東の果ての大陸からやってきたらしい。
 吟遊詩人の歌の中で、彼らは決まって古の魔術を使う存在として描かれていた。褐色の肌を持ち、歌と踊りと占いに長け、長寿だというロマの一族。血を重んじ、一族の中での婚姻を繰り返すという彼らの存在は、科学が発達しつつあるこの現代では明らかに異質な存在だったが、だからこそ人々の好奇心を時として大いにくすぐった。
 吟遊詩人が歌の中で歌い、そして親から子へ寝物語に語られるその一族は、伝承でありながら、それでも確かに存在していた。
 ロマの一族の証は、この辺りではほかに見られない豊かな黒髪と、褐色の肌、そして新緑のように深く明るく輝く瞳だった。マーリンの母親はロマであり、マーリンにもまた、その特徴はしっかりと受け継がれていた。

 書斎のドアをノックする。
 控えめに三度、それで答えが返ってこない時は言葉を続けない方がいい。何も反応がないことを期待してしまうのはいつものことだったが、安全圏だと判断できる十秒が経つ前に足音が聞こえて、両手にギュッと力を込めた。
 重厚なドアが開く音。俯いたマーリンの視界に、赤に金糸で見事な刺繍の施された靴のつま先と、ビロードのような艶のある赤い布地が映りこむ。相変わらず、自分の汚れて擦り切れた鞣革の靴と見比べると同じ履物だとは思えない。
 彼女が声をかけてくるまで、口を開いてはいけない。顔を見てはいけない。反応してはいけない。この五年間で学んだマーリンの処世術だ。
「……それで」
 そして、彼女が低い声で何かを問いかけてきたら、即座に望む答えを返すこと。
「掃除はもう終わったの」
「はい。西棟の屋根裏の家具や窓に傷みはなく、艶があって、燭台の残量も問題ありませんでした。テーブルクロスの一部がほつれていたので、そちらだけ新しいものと取り替えました」
「そう」
「はい。……他には何か、ご用件はございますか」
「……いいえ。今日はもういいわ」
 一つ瞬きをする。
 珍しい。陽が落ちてからまだ大砂時計の砂も落ちきっておらず、いつもならこの後一つ二つ小さな雑用を探してやっておきなさいと言われているところなのに。
「それでは、失礼いたします。……おやすみなさいませ、奥様」
「――ああ、待って。顔を上げなさい」
 ほら、来た。
 前髪で隠した顔でギュッと一度目を瞑ってから、なるべく自然に見えるように顔を上げる。
 赤いドレスに身を包んだ、美しい女性が視界に映る。背が高い。繊細なレースの襟首に包まれた小さな卵型の顔、細くもきりりと引かれた眉と、その下で冷然とした光を放つ青灰色の瞳。くっきりとした目鼻立ちに、白く滑らかで陶器のような肌。瀟洒に後ろで結い上げた色の薄い金髪は、暖炉の光を浴びて輝いて見える。艶やかに紅の引かれた唇は僅かに弧を描いて、掛け値無しに美しかったが、マーリンは彼女が誰よりも怖い女性であることを知っている。この笑顔は仮面にしか過ぎないことも、五年間で骨身に沁みている。
 彼女の指がツイと伸ばされ、マーリンの不揃いな前髪に触れる。ビクリと身を強張らせてしまい、しまった、と思ったが、彼女の指は前髪から動かなかった。
「これ。まだ整えもしないの」
「……はい。見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「本当にね。やっぱりお前たちが自分で自分の髪を切れないというのは本当なの?」
「……」
 咄嗟に機転の利く言葉が出てこない。ここで言葉を間違えると、もしかしたら今ここで、自分で髪を切りなさいと言われるかもしれない。
 だから、マーリンは髪のことには何も触れずに深く腰を屈めて謝罪の言葉を口にする。悪いことをしたわけではなく、ただその場を辞することの許しを得るためだけの言葉。
「……すみません。奥様」
 すみません、と続けるのがマーリンの癖だった。謝罪の言葉を繰り返すマーリンに、彼女も呆れたような表情を返す。前髪から手を離して、良いわ、と頷いてからいつもの言葉を口にした。
「今日はいいことあった?」
 だからマーリンも、目を伏せて、いつもの言葉を返す。
「いいえ、お館様と奥様に頂いたご厚意のみが、僕の幸せな気持ちを満たしてくださる一日でした」

 靴を脱いで毛布の上に体を投げ出すと、ベッドの金具が耳障りな音を出して軋んだ。
 一つため息をついて、毛布をぐるりと体に巻きつけ、その中で胎児のように膝を抱え込む。お腹が空いた。とても寒い。早く毛布の中に熱がこもってほしかった。
 マーリンに自分の部屋はない。
 正確に言うと、今はもうない。
 館の一階部分から少し下がった地下に、冬の間の薪と石炭を蓄える部屋があり、その部屋には小さな梯子とロフトが備え付けられている。ロフトに無造作に置かれた古く小さなベッド。ダマの目立つ一枚の毛布。寝床の傍に置かれている、殆ど開かれた形跡のない一冊の聖書。床の上に折りたたんで重ねられた、同じような色のチュニックとズボン。これが、今のマーリンに与えられた空間の全てだった。
 冷たい風が顔を撫でて、毛布を顔まで引き上げる。寝ころんだマーリンの位置から部屋の対角に、格子の嵌められた半円形の窓が設えられている。薪が湿気らないようにと換気の目的で作られたその窓からは、季節と天候によっては草や積もった雪が見える。館の外から見ると、外壁の地面と接する所に半円形にせり出した屋根が付けられ、錆びた格子越しにそこからこの部屋の中が見えるだろう。
 常に外と繋がっているこの部屋は、夜半から朝に掛けては凍えそうなほどの寒さだったが、それでも風はほぼ遮断できるし、一人用のベッドも毛布もある。何より、屋敷の人間とほぼ顔を見合わせなくても良いということが最大の利点だった。
「……」
 毛布の間から見慣れたロフトの天井を見上げて、今日の出来事を回想する。特に彼女、エレクトラのことを中心的に。
 レディ・エレクトラ。彼女は北方の貴族出身で、このロドリア家とマーリンの実質的な支配者だった。美しく、誇り高く、自分が中心にいないと気が済まない。だから、自分の支配下にありながら、ロマであるマーリンの母親に一度でも心を奪われた夫のことを決して許しはしないし、その子供であり、母親にそっくりな顔を持つマーリンのことも許すことはないだろう。
 五年前、夫のバイロン公が病に倒れた時に、孤児たちの集まる街の学び舎からマーリンを探し出して引き取ったのも、決して嫡子のいない家の為にと夫の言葉を遵守した訳ではないだろう。
 彼女はいつも、マーリンをこの屋敷に閉じ込め、幸せになっていないか監視している。

 人生はそう簡単には変わらない。
 例えば自分が、本当にレディ・エレクトラの息子だったら? エレクトラでなくてもいい。裕福な家庭でなくても良い。普通の容姿で両親に望まれて生まれ、家族の愛を受けて育てていたら。こんな寒い夜には、母親の作ってくれた温かいスープを飲みながら、暖炉の火で溶かしたチーズを真っ白なパンにグッと垂らして食べてみたい。ふつふつと粟立つ香ばしいチーズの香り、焼き立てのパンの柔らかさ。テーブルの上には香辛料を贅沢に使った若鶏の蒸し焼きと、赤々と燃える暖炉の火を反射している赤ワインの瓶なんかが置いてあると良い。お腹が膨れるまでスープを飲んで、真っ赤な顔で、美味しいねと同じテーブルに着いている両親と笑いあうことができたなら、どんなに幸せだろう。焼き立てのパンと火で炙ったチーズ、若鶏の蒸し焼きのご馳走は、孤児院にいた時に一度だけ、聖夜のお祝いで食べたことがあった。
 五年前だったら想像したかもしれない。三年前だったら夢想したかもしれない。けれども、一四歳になったマーリンは、夢は夢でしかないことをよく知っていた。
 視界に入るのは暖炉の赤どころか燭台の光一つない冷たい暗闇で、耳につく静寂の中、自分を取り囲んでいるのは寒々とした石の壁と、僅かにカビの匂いがする毛布だけだった。視界の利かない暗闇でも、吐いた息が白いのだろうということは想像がついた。
 マーリンは自分の母親のことを殆ど覚えていない。他のロマの人間も知らない。だから母親や一族のことを恋しいと思う気持ちは特にはない。ただ物心ついた時には孤児院にいて、そこで物事にはみな流れがあること、子供でも派閥があり、弱者と強者がいること、そして身を守るには流れには逆らわない方が良いことを学んだ。
 ここに来たのは自分の意思ではなかったが、どちらにしてもあのまま孤児院に居続けることはできなかっただろうし、この一年の大半を雪で閉ざされた世界の中で一人で生きていくことはできなかっただろう。
 あと二年の辛抱だ、と思った。あと二年待てばマーリンは成人し、成人にはみな等しく三年間の兵役の義務が課せられる。そこまで待てば、少なくともこの家は出ることが出来る。
 掌をお腹に当てて、無心に意識を集中させる。ほどなくして、ふわりと温かくなる身体と、満たされる空腹感に、ほぅと息を吐いた。
 昔からそうだった。傷を負った時、耐えられないような空腹感に苛まれたとき、こうして掌を当てると、身体の痛みは減っていき、身体が軽くなるような気さえする。荒れている指先も良くなりますようにと願った
 目を開けると、毛布の暗闇の中で自分の身体が薄く光っているのが分かった。
 なぜこうなるのか不思議で、でも人には聞けなくて、いつもこの瞬間ばかりは、自分の中に流れるロマの血を意識せずにはいられなかった。

 来る日も来る日も変わらない毎日。
 朝日が昇る前に体を震わせながら起きて、まず井戸の氷を割る。晴れた日は森に入り、使用人たちが家事に使う薪を拾ってくる。それから屋敷の使用人たちと共に屋敷の中を掃除し、銀食器を磨く。玄関ホールの床に、艶のはげている部分がないかチェックをする。バイロン公に朝の挨拶をしてから部屋の洗い物を下げ、エレクトラが起きてからは彼女の声が聞こえる場所にいる。エレクトラは、気まぐれのようにマーリンに構うこともあれば、マーリンがまるでいないものかのように振る舞うことも多々あった。それから、その細い指でマーリンの首を絞めることも。
 マーリンは、この屋敷の中では一応跡取りという立場にあるらしい。
 それだから屋敷の使用人たちは、マーリンに対しても敬うような態度を取るし、つらく当たることはなかったが、レディ・エレクトラの不興を買うことを恐れ、誰もマーリンと積極的に口を聞こうとはしなかった。父親のバイロン公は優しかったが、それでも病床にあって、マーリンのために何かをしてくれるわけではなかった。
 食事は一日に二度、野菜のスープ、硬いパンと紅茶を、エレクトラの見ている前で食べることを許されている。エレクトラの冷たい視線を受けながら、酸味の強い硬いパンを、ただ液体で喉の奥に流し込むだけの食事。そんなに嫌いなら、見なければいいのに、といつも思う。
 一日動き回り、濡れ布巾で体を拭って、またベッドに倒れ込むだけの毎日。
 『お館様と奥様に頂いたご厚意のみが、僕の幸せな気持ちを満たしてくださる一日でした』
 エレクトラに、今日も幸せじゃないということを確認される――そんな、毎日。
 年月が、慣れと安らぎを与えてくれるなんて嘘だ。
 慣れはすれども、心には少しずつ、澱が溜まっていく。幸せではない。そう口にすることで、無意識のうちに、ああ、自分は幸せではなかったのだと自分に言い聞かせている気がした。
 最後に笑ったのはいつだろう。最後に美味しいと思った食事を食べたのはいつだろう。
 名も知らなかった父親が財力のある貴族で、そんな家に引き取ってもらえるのだと知った日、マーリンは戸惑いながらも喜んだ。夢じゃないかと思った。だけど、これならよっぽど、孤児院の方がマシな生活だったじゃないか。なぜこんな中途半端な状態で生きているんだろう。あと二年がどうしてこんなに長く感じるんだろう。ああ、帰りたい。でも孤児院には戻れない。どこかここ以外の世界で暮らしたい。どこか。
 いたくないなぁ、と思った。もうここにはいたくない。
 ざわざわと天井で蠢く黒い影が、なぜだか悲しんでいるように見えた時、マーリンはたまらず呻いて両の瞳を覆った。

 ――ふと気づいた時、視界に入ってきたのは黄緑だった。
「……え」
 薄暗い闇ではなく、視界に眩しい一面の黄緑。入ってくる光の明るさに、思わず腕で陰を作って目を眇めてしまう。手足と首の後ろに感じるのは柔らかな草の感触だった。顎元まで引き上げて身体に巻きつけていた毛布は見当たらず、それでも寒さは感じない。むしろ、肌にじりじりと熱を感じるような気温だった。
 身体を起こして辺りを見回すと、マーリンが寝ころんでいたのは、一面に柔らかい若草の生えているどこかの広場のようだった。
 顔と肌に当たる木漏れ日。辺りには何本もの黄緑色をした巨木が生え、その曲がりくねった幹を追うと、はるか上空まで視線を上げることになった。
 ああ、夢なのか、とここにきてやっと思い至る。
 今は雪深い冬季であり、ただでさえ曇天の多いこの地域で、こんな景色を見たことなど記憶になかった。
 立ち上がり、とりあえず目についた巨木に歩み寄る。黄緑色の樹だと思ったのは、どうやら表面を覆う苔が陽射しを浴びて反射していたらしい。
 呆れるほど巨大で、立派な樹だった。マーリンが両手を広げても、幹を囲むにはあと十人は必要だろう。根の一本一本までマーリンの身体よりも太く、生命力に溢れていて、無意識のうちに「すごいな」と声が漏れていた。
 根を跨いで乗り越え、その幹に触れたのは特に何かを思ってのことではなかった。
 だから触れた瞬間に、バチンと掌から走った衝撃にも、咄嗟に幹から手を離すことができなかった。
「……っぁああああ!」
 続く衝撃。何かが身体に流れ込んでくるような痛みと痺れ、また衝撃。
 雷に打たれたのか。樹から感電したのか。夢じゃなかったのか。
 目が回る。目の前が真っ白になる。待ってくれ、待ってくれ。
 夢の中で死んだらどうなるんだろうかと刹那の間で考えて、マーリンの意識は白く塗りつぶされた。

 ――二度目に気が付いた時、マーリンの視界に入ってきたのは一面の星空だった。
「……え」
 薄暗いただの暗闇ではなく、眩しい黄緑でもなく、満天の星空だ。
 束の間目の前の景色に意識の全てを奪われて、それから直前のことを思いだした。
 確かに身体が痛かった。頬を触れば感触がある。あれは本当に夢だったのか。そしてここも本当に夢なのか、なぜかあまり自信が持てなかった。
「……」
 目の前に手の甲を広げて、指の間から見える星空を眺める。辺りはすっかり夜の帳を下ろしていたが、空は星々の瞬きでどこまでも輝いて見えた。どうやら場面は変わったらしい。辺りに木々は見あたらず、頭の後ろには土の気配がする。それから水の匂いも。寒さは感じない。
 ぼんやりと瞬く星々を眺めていると、不意に視界が揺らいで、涙が頬を伝うのを感じた。
「……ぅわ」
 自分に驚く。
 綺麗だった。視界の全てを占めるような、満天の星空。
 何かが胸の奥から込み上げてくる。ツンと鼻の奥が痛んで、すすりあげると鼻の奥がまた痛んだ。
 いつもいつも、下ばかりを見て生きてきた。自分のすり減った鞣革の靴のつま先と、荒れた手の指先。こんな風に空を見上げたことなど、何年ぶりだろう。
「――綺麗でしょう」
 ふと声がして、顔を右に向ける。
 仰向けに寝ころんでいたマーリンから少し離れたところに、誰かが座っているようだった。
 身体を起こすと、服の上から土の落ちる気配がした。
 ほんの数メートル先に水を満々と湛えた広大な湖が広がっているのを見て、辺りに漂う水の匂いに納得する。
 その誰かは、マーリンのすぐそばまで歩いてきた。長い髪、それなりに長身の、ほっそりとしたシルエット。声はまだ若い女性のものだったが、その顔を見上げてマーリンは首を傾げる。
 明るく瞬く星空が背景にあるからではない。その人物には顔がなく、身体の縁取りに併せて闇を流し込んだように、シルエットのみが立体となって存在していた。
「こんばんは、マーリン」
 シルエットがマーリンに話しかける。豊かに波打つ髪と、恐らく薄布を纏っているのだろう女性の肢体。
 その声が柔らかくて温かいものだったからかもしれない。名前を呼ばれたからかもしれない。なぜだか不思議だとは思わず、気がつけばマーリンもにこりと微笑んでいた。
「……こんばんは」

 夜の湖畔の岸辺で、顔の見えない彼女と話をする。ここがどこなのか、あなたは誰なのか。意識の隅にある質問はせず、ぽつりぽつりと取り留めのない話をしていた。自分が今住んでいるところの話、最近のなかなか晴れない天気のこと、背が伸びたことなど。彼女と話すのは楽しかった。
 ねぇマーリン、と彼女が言う。その声音は穏やかで、まるで家族に対して話しているかのように温かい。
「嫌だったって言うけど、何でその家を出なかったの? なんで五年間もずっと我慢しているの」
「それが流れだと思ったんです。何より、僕は子供だった。この雪国で子供が一人で生きていけるとはとても思えなかった」
「でも、だったって言うことは今では自分のことを子供じゃないと思っているんでしょう? だったら少なくとも、今もまだその家にいるのはマーリン自身の意思だということかしら」
「……そんなことは」
「そんなことはない? だって聞いている限り、外に出られる機会は沢山あったんでしょう? それで自分の住んでいる環境が嫌だと思って、どこかに行きたいと思って、それでもいつもその家に帰っていたんでしょう?」
「……雪国なんですよ。お屋敷には一応僕の父親であるバイロン公もいらっしゃいますし、そのお世話をしなくてはいけません。僕が育ってきた孤児院だって、今の家から大分資金を提供されたはずなんです」
「それは自分に対する言い訳じゃなくて? バイロン公があなたに世話を頼むって、そう言ったの?」
 こて、と首を傾げた彼女がこちらを覗き込みながら言う言葉に一瞬絶句するが、咄嗟に言葉を続けられない。マーリンに考える隙を与えないように彼女の言葉は続いた。
「質問を変えましょう。今の環境にいて、あなたが得たものはある?」
「……ありません」
「そうかしら。嫌でいやで、それでも出て行かなかったとしたら、本当にさっき言ったことだけで家に残っているの? たとえば」
 ツ、と彼女のほっそりとした指がマーリンの身体を指差す。
「飢えのない生活とか。凍え死ぬことのない寝床だとか。安泰の未来だとか。幸せって――」
「知ったようなこと言わないで!」
 思わず目の前が赤くなる。気づけば怒鳴っていた。
 女性がびっくりしたように指を宙で止めている。黒いシルエットのみの髪が、僅かに広がって静止していた。
 その姿にすぐさま我に返って、若干の気まずさを覚えながら、それでも溢れてくる言葉を止めることはしない。
「……あったかくて飢えなかったら幸せなんでしょうか。いつも自分のことを嫌いと言う人の前でご飯を頂いて、気まぐれに構われて、でも何年間もだれかと笑って話すことも幸せだと感じることもありませんでした。幸せなことがないんですって毎日自分に言い聞かせて、地下室で凍えながら寝て起きて、その繰り返しなんです」
「でも結局その家にいるんでしょう? それに、彼女からしたらあなたは憎んでいる相手なのよね? それでも寝床を与え、飢えさせず、凍死させることなく自分の家で暮らさせている。それは彼女の温情とは言えないかしら」
「……いつもお腹は空いていたし、凍え死にそうになっていました。僕じゃなかったらきっととっくに死んでいます」
「あらあら。じゃぁあなたはどんな形であれ食べ物も寝るところも、与えられていたのは当たり前だったというのかしら」
「……」
 思わず黙り込む。
 レディ・エレクトラのお蔭で今のマーリンが生きている。彼女のことを考えたことは山とあっても、彼女の気持ちを考えたことはなかった。肯定するには感情が邪魔をする質問だったが、反論しようにも上手く言葉が見つけられず、数秒考え込んだ末に、前髪で表情を隠しながら渋々マーリンは首肯する。
「……当たり前のことでは……ないと思います……」
「ええ。……気持ちが良いことではないというのも分かるんだけど……でも、それであと二年? 兵役があれば今の家から出られるから我慢するの?」
「……」
 またしても黙り込んだマーリンに、女性が苦笑したような気配がした。それでもそこに嘲笑うような色はなかったから、マーリンも黙って耳を傾ける。
「物事には流れがあるっていうのは分かるのよ。確かに物事には流れがあって、そこに載った方が良いこともある。でも、万物がそうではなくて、自分の意思があれば流れに逆らうことだってできるんじゃないかしら」
「……この家には居続けない方が良いってことですが?」
「どうかな。それもあなた次第かしらと思うけれど」
 根拠なく、なぜか肯定されると思った呟きに想定外の答えが返ってきて思わず彼女の顔を見つめる。音もなく、表情のない顔の中で、なぜだか彼女がにこりと笑ったのが分かった。
「雪国で、恩のある方もいる。飢えることもないし、もう少し待てば家を離れられる機会もある。さっきあなたが言ったことでしょう。でも、探せば他にも道があるのに、自分を嫌っている人の傍で居続けるというのがあなたの選択ならば、それは仕方のないことじゃなくて、あなた自身が選んだ道だわ」
「……」
 そうなのだろうか。そうなのかもしれない。
 この場所に来てから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。この長くはない時間の中で、ここ数年分以上の会話を人としている気がする。
 ぐるぐると彼女の言葉を反芻していると、マーリンの傍で彼女がつと立ち上がって歩き出した。
 目の前には、広大な湖面が広がっている。風による漣すら立たない、炭を溶かし込んだような暗さの静かな水面。
 湖面を覗き込んだ女性が僅かに仰け反った。それから両手を併せて再度湖を覗き込む。なんだかひどく嬉しそうだった。
「来て」と弾むような彼女の声に誘われて、マーリンも湖のすぐそばまで歩いて行く。彼女の指の射すままに、岸に手をついて水面を覗き込んで、思わず息を飲んだ。
 水面を逆さに覗き込む自分の見慣れた顔。その顔の向こうに、女性の姿が見えた。長い黒髪、褐色の肌、緑色の瞳。太い帯を締めた薄布を体にまとっている。その姿は一枚の紗が掛かったようにはっきりと見ることはできなかったが、それでも女性が嬉しそうに肩を揺らし、笑っているのが分かった。
 頭が真っ白になって、そこから数秒掛けて、何かがじわじわと込み上げてくる。
 バッと振り返り、女性を見上げる。口を開く前に、唇の前に指が押し当てられた。温かさを感じる指先。闇を溶かし込んだようなシルエット。
 首を振るその仕草に、彼女の言いたいことを理解する。なぜだか分からないが頷いて、それでも想いを殺せず湖面を再度凝視する。
 きらきらと輝く湖面は、光を反射すると夜だとは思えないほど明るく見えた。
 不意に、マーリンの髪を纏めていた紐が解かれる。慌てる間もなく、癖があり腰下まで伸びた黒髪が湖面に広がった。
「なにを……」
 するんですか、と言おうとした言葉が途切れる。
 湖面に触れた黒髪が淡く光っている。ゆらゆらと漂い、沈むこともせず、ただ水面に広がって淡く金の光を広げていた。
 湖面を介して、もう一対の緑の瞳と視線が交わる。新緑の瞳。ロマの一族の証。
 水面に映る自分の姿は、星の明かりを背景に不思議な燐光を伴っているように見えた。満天の星空と、星々の煌めきを分けてもらったかのように輝く波打つ黒髪。
 彼女がまた緑の瞳を細めて微笑む。
 初めて、自分の中に流れる血を好きだと思えた瞬間だった。

「自分に素直に生きられたらいいね」と彼女は言った。
「どんな道でも良いのだけど。それがどんな結果につながったとしても、自分が選んだことならきっと納得できるから」
 星で煌めく湖面を見ながら、彼女の言葉を噛みしめた。そうだね、と頷く。そう、思います。
「ずっと昔。小さい頃は、こうじゃなかったと思うんです」
ポツリと呟く。
「好きなものは好きだと言っていたし、嫌なものは嫌だと言っていた。好きなものを追いかけて、走ったりしていたと思うんです」
 キラキラしたものを追いかけて、好きなもののことを考えて、振り向いて、だけど、気がついたらいつのまにか世界をフィルター越しに見るようになっていた。
「嫌なものを好きだと言って、届かないものを諦めて、幸せではないのに幸せだと思い込むように」
「自分に言い聞かせていたの?」
「多分……こんな嘘がつけるようになった僕って、汚れたと思いますか?」
「そんなことは思わないけれど……」
 傍に立つ彼女がわずかにため息をついた。そのまま抱き寄せられて、頭を軽く撫でられる。
 硬直したのも束の間、身体から力がするすると抜けて、じんわりとした温かさが身体に沁みていくのが分かった。
 ああ、温かいな、と思った。
 これは夢だと分かっている。それでもどうか、今だけは。この宝石みたいな夢が少しでも長く続きますように。
「いつかまた、あなたに会える日が来ますか……?」
 思わず口をついてしまった問いかけ。
 彼女の返答はない。
 それでも、静かな湖畔の岸辺、輝く星空の下で、記憶の奥底にあった懐かしい温もりが、一層柔らかくなるのを感じた。

 ――ふと目が覚めた。
 辺りはまだ薄暗いが、仄かに明るい。耳が拾う辺りの音は静かだから、今日は雪は降っていないらしい。鼻まで引き上げた毛布を下げて口元を出すと、吐息が白く曇るのが分かった。
 ぼんやりと辺りを見回しながら、毛布を脱ぎ捨てて立ち上がる。床は凍るほどに冷たいはずだったが、ひんやりと心地よく、不思議とそこまで冷たくは感じなかった。
 手が凍えていない。痛くもない。目の前に手の甲をかざすと、いつも当たり前のようにあった指の腫れが引いていた。節ばってはいたが、その節を見ることすら、冬の間は長らくなかったというのに。切れていたはずの箇所が綺麗な肌になっていた。
 両手を顔に押し当てると、いつもの氷を触るような冷たさは感じず、柔らかさと熱を感じることができた。瞼を閉じて、そのまま喉に手を滑らせると、トクトクと動く血の流れを感じる。
 何が変わったのかは分からない。だが、マーリンの中で、確かに何かが変わっているのが分かった。首の後ろで結んだ髪紐を解く。長くうねる黒髪が広がって、背中に優しいぬくもりを感じた。
 目を開ける。

 地下室から地上に続く螺旋階段を、ゆっくりと上がっていく。
 屋敷へ続く扉を押し開け、玄関ホールに辿りつく。
 まだ薄暗い玄関ホールは、使用人たちが未だ起きていないことを示していた。玄関の扉と二階へ続く大階段、二つを見ながら少し迷って、その大階段へと足を向ける
 大階段から続く廊下の、更に奥。二枚並んだ扉の前で立ち止まって、いつも開けている扉を押し開けた。

 バイロン公は、起きていた。
 天蓋付きの豪奢なベッドの中で、柔らかな羽毛の敷き詰められた敷布に身を横たえながら、寝起きとも思えないはっきりとした目でマーリンの顔を静かに見あげる。
「おはよう、マーリン」
「……おはようございます、バイロン様」
 使用人すら起きていないこの早朝にバイロン公が起きているとは思わず、何を言えばいいのか言葉が出てこない。
 一目だけ、顔を見ることが出来ればいいと思ったのだ。話すことを想定しておらず、自然と視線が刺繍の施された掛布の上を彷徨うが、数秒の空白を経て、バイロン公の「マーリン」という言葉で我に返った。
「もう、行くのかい」
 咄嗟に言葉が浮かばずバイロン公の顔を見返す。
 すっかりと白くなった髪と髭、頬骨と隈の目立つ顔の中で、バイロン公の茶色の瞳だけが輝いて見えた。静かな表情だったが、ふと目が柔らかく細められて、マーリンを見つめる。
 いつも、二言、三言と会話をし、洗濯物を下げてから屋敷の掃除に出かける。バイロン公のこの言葉も、いつもの挨拶かもしれない。そこまで考えて、だからマーリンは頷いた。
 自分と血のつながった人。自分がこの屋敷に来ることになった原因の人。エレクトラの夫でもあり、最後まで父親としては見ることも呼ぶこともできなかったが、マーリンがこの屋敷に来てから、優しく微笑んでくれた唯一の人だ。
「――はい。行ってきます」
 優しく細められたその瞳が僅かに頷いてくれたから、マーリンもこの家に来てから初めて、自然と微笑むことができた。

 玄関ホールに出ると、燭台に火が灯っていた。使用人たちが起き始めたらしい。
 鍵を開け、重い玄関の扉をグッと押し開く。隙間から風に乗って新雪が舞い込んだが、その風に引っ張られるようにして扉を全開にした。
 昨夜は雪が降ったのだろう。まだ誰も踏み歩いていない一面の雪が、登り始めた朝陽を受けてキラキラとダイヤモンドのように輝いていた。
 トクトクと心臓が脈打っている。思わず口元に併せた手に息を吐きかけ、眩しい空を振り仰いだ。
 空が抜けるように高くて澄んだ水色をしていた。頭の真上が一番青く、地平線に向かうにつれて少しずつ白く霞んでいくような冬の晴天。息は変わらず白く曇るのに、髪を揺らし身体を吹き抜ける風がこんなにも心地いい。
 冷たく澄んだ空気を一つ深く吸い込んでから、雪原に誘われるように足を一歩前に踏み出した。
 一歩、二歩、歩いて、走り出して、屋敷の敷地を飛び出す。
 雪原の上に鞣革の靴を埋めると、新雪はふかりと受け入れてくれた。
 視界が一面白い。後ろを振り向くと、豪奢な洋館が玄関を開けて静かにたたずんでいる。
 五年前、ここに連れてこられた初日。なんて立派なお屋敷だろうと思った。高く尖った二棟の塔。細かく意匠の凝らされた白亜の外壁。幾つも等間隔で並べられた組硝子の窓。
 だが、今のマーリンには、この家は大きな籠にしか見えなかった。外見を繕い、綺麗な顔で微笑んで、その裏では全てがエレクトラの支配の及ぶ世界だ。
 そうして徐々に視線を下げると、玄関から真っ白な雪原に、そして足元にと足跡が続いていて、思わず頬が緩んだ。白い景色、少し薄汚れた灰色のチュニック、自分の肌が一番色を持っている。
 ああ、ほら。頬が緩む。ひんやりと冷たくても、色がなくても、自然の雪の方があの屋敷よりどれだけ綺麗だろう。どれだけ優しいだろう。あの星空の方が、どれだけ輝いていただろう。
 耳がかすかに足音を拾った。
 屋敷の中から、磨き上げられた階段を足早に降りてくるヒールの高い靴の音。この五年間、毎日欠かさず耳にして、幾度も踵を返したくて、逃げることが許されなかった音。
 先ほどのバイロン公との会話が聞こえたのかもしれない。
 ああ、なぜだろう。今まで焦るところなど聞いたことのなかった足音が急いでいるのが、そしてその音が屋敷の中から聞こえるということがとても嬉しい。
 マーリンは今、戻るためではなく、出ていくために、屋敷の門の外にいる。
 すぅ、と深く息を吸う。
「――お世話になりました!」
 一つ叫んで、玄関にその姿を認める前に踵を返して駆け出した。
 風で雪が舞う。
 結晶が太陽に反射して、視界がキラキラと煌めいて見える。ゴゥと雪が舞いあがり、マーリンの行き先を押し広げ、後ろは逆に白く濁っていくのが見えた。足元の雪が後ろでサラサラと崩れていく。どうやら手助けをしてくれているらしい。
 綺麗だな、と思った。白くて、綺麗で、輝いている。彼らの声を聞いてみたい。その力を魔術と呼ぶなら、マーリンにその力があるのなら、彼らと心を通わせてみたい。足が自然と森の方へと向かっていく。
 喉がなる。小さく笑い声が漏れて、次第に大きな笑い声が弾けた。

 後に、偉大な魔術師としてその名を知らしめるマーリンが、まだほんの少年だったころのお話し。

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